元文化庁長官で作家の三浦朱門さんが3日午前6時50分、東京都内の病院で死去されました。91歳でした。
お名前は知っているのですが、どんなことをされた方なのか、よく知らなかったので調べてみました。
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三浦朱門さんのプロフィール
ペンネーム 三浦 朱門(みうら しゅもん)
誕生 1926年1月12日
出身地 東京府東京市(現・東京都)
死没 2017年2月3日(満91歳没)
職業 小説家
教育 文学士(東京大学・1948年)
最終学歴 東京大学文学部言語学科
活動期間 1951年 – 2017年
ジャンル 小説・随筆・評論
主題 日本国家のあり方
三浦朱門さんの著名な家族
配偶者 曾野綾子(妻)・・作家『遠来の客たち』(1954年)『木枯しの庭』(1976年)『神の汚れた手』(1980年)
子供 三浦太郎(長男)・・日本の文化人類学者、中部大学教授。
親族 三浦逸雄(父)・・イタリア文学者。
三浦暁子(長男の妻)・・エッセイスト。
三浦朱門さんの死因は?
三浦朱門さんは、2017年2月3日、間質性肺炎のため死去されたそうです。
間質性肺炎(かんしつせいはいえん)は、肺を支える間質に炎症や線維化が起こる病気だそうです。
症状は肺が固くなる為、呼吸ができなくなって苦しいそうです。
三浦朱門さんの葬儀や告別式は?
葬儀・告別式は近親者で営んだそうです。
喪主は妻で作家の曽野綾子(そのあやこ)さんでした。
三浦朱門さんのお別れの会は?
詳しいことはまだ決まっていないようです。
三浦朱門さんの経歴は?
教職に就きながら「第三の新人」として活躍
- 東京大文学部卒業と同時に日本大芸術学部で教職に就く。
- 1950年に第15次「新思潮」同人となり、51年に「冥府(めいふ)山水図」でデビュー。
- 芥川龍之介を思わせる知的な作風で頭角を現し、安岡章太郎や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。
- 戦後の家庭のもろさを冷笑的にとらえた「箱庭」で67年新潮社文学賞。
- 東京・武蔵野の風土に根差す人々を描いて文明批評の面も評価された「武蔵野インディアン」で83年芸術選奨文部大臣賞。
- 大学紛争の中、69年に日大教授を退職。
- 「結婚なんかおやめなさい」「老人よ、花と散れ」「日本人をダメにした教育」など家庭や教育問題の著作も多数。
温厚でバランス感覚にも優れ、多くの公職に就いた
- 85~86年は文化庁長官を務め、国体の文化版として国民文化祭を発案。
- 88~94年日本文芸家協会理事長。
- 96年に教育課程審議会会長に就任し「ゆとり教育」の道筋をつけた。
- 87年日本芸術院会員、99年文化功労者。
- 2004~14年は日本芸術院院長。
妻は作家の曽野綾子さん
三浦朱門さんは、1953年に同人誌で知り合った曽野綾子(そのあやこ)さんと結婚。
2人はいずれもカトリック信徒で、“おしどり作家”として知られていました。
ゆとり教育を推進した三浦朱門・曽野綾子夫妻
「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」
この発言をキッカケに2次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになったと言われています。
教育課程審議会会長として、ゆとり教育に舵を切った新・学習指導要領の答申の最高責任者として関わっており、後に「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」という妻である曽野綾子の発言を紹介している。
曽野綾子は中曽根臨時教育審議会(臨教審)のメンバーとして同じくゆとり教育の導入に尽力した。
2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、「出来ん者は出来んままで結構、100人中2~3人はいるはずのエリートを伸ばす。それ以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば本人にも国民にとっても不幸になる」と、エリート主義的な発想からゆとり教育を導入したと語った。
まとめ
黒歴史となってしまった「ゆとり教育」を推進した人物が三浦朱門さんだったようですね。
訃報なのに、ツイッターでは「ゆとり世代」の恨み節が多くつぶやかれているようです。