ファン1万人&レジェンドOB達が、ガチで選んだ最強助っ人ランキングが、2018年10月22日(月)19時00分放送の中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います! で発表されます。
プロ野球ファン1万人とレジェンドOBにアンケートをとり、歴代およそ1200人の助っ人外国人選手の中から「一番スゴイ」と思う選手を挙げてもらい、それをもとにランキングを作成。
ファン1万人&レジェンドOB達が、ガチで選んだ最強助っ人外国人ベスト25は誰になったんでしょう?
Contents
- プロ野球・最強助っ人外国人ベスト25
- 第25位 呂明賜
- 第24位 郭泰源
- 第23位 ビル・ガリクソン
- 第22位 ジョン・シピン
- 第21位 ジーン・バッキー
- 第20位 ジェフ・ウィリアムス
- 第19位 チャーリー・マニエル
- 第18位 ボブ・ホーナー
- 第17位 郭源治
- 第16位 ブーマー
- 第15位 ロバート・ローズ
- 第14位 トーマス・オマリー
- 第13位 デニス・サファテ
- 第12位 マット・マートン
- 第11位 ラルフ・ブライアント
- 第10位 マイルズ・マイコラス
- 第9位 ランディ・メッセンジャー
- 第8位 オレステス・デストラーデ
- 第7位 アレックス・カブレラ
- 第6位 タフィ・ローズ
- 第5位 ロベルト・ペタジーニ
- 第4位 ウラディミール・バレンティン
- 第3位 アレックス・ラミレス
- 第2位 ウォーレン・クロマティ
- 第1位 ランディ・バース
- 球界のレジェンドが本気で選ぶベスト3
- まとめ
プロ野球・最強助っ人外国人ベスト25
第25位 呂明賜
鮮烈デビュー!マンガにもなった台湾の大砲
デビューから9試合で、まさかの7本塁打!
呂 明賜(ルー・ミンスー、ろ めいし、1964年10月30日 – )は、台湾の高雄市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投右打)・コーチ。
台湾の文化大学から1988年にドラフト外で日本野球機構の読売ジャイアンツに入団。呂が1年目につけていた背番号97は、入団時の体重が97kgだったことに由来するが、読売ジャイアンツ在籍の2年目(1989年)以降、背番号を12に変更している。当時、巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国人は1球団につき2人まで)だった。そのため、最初は二軍生活を送った。
ところが、6月に行われた阪神甲子園球場の対阪神タイガース戦で、クロマティが死球を受け右手小指を骨折し離脱したことに伴い、初めて一軍に昇格すると、6月14日の明治神宮野球場の対ヤクルトスワローズ戦で、初回にボブ・ギブソンから初打席初本塁打を記録。デビュー9試合で36打数12安打7本塁打(またデビュー17試合で10本塁打)と大暴れし、その年のジュニアオールスターゲームとオールスターゲーム(監督推薦)の両方に出場する。
当時はオールスターゲームの外国人枠は2人だったが、急遽3人に増設されたほどであった。後半戦は疲労や弱点(内角の速球)を読まれ始めたことが原因で成績が落ちたが、最終的には本塁打を16本放ち、前傾姿勢の打撃フォームから繰り出される豪快な一打から、「アジアの大砲」「怪物」(当時の日刊スポーツコラムより)と評された。
しかし翌年の1989年には、クロマティが復帰し他にガリクソン(’89年)やマイク・ブラウン(1990年)といったほかの外国人選手との外国人枠の兼ね合い、起用方針が若手選手主体に転換されたため二軍暮らしが続き、出場機会に恵まれないままファーム日本選手権MVP獲得直後の1991年のシーズンオフに退団。
2013年には、台湾代表チーム監督に就任した。2014年仁川アジア大会では韓国との決勝戦で敗れ準優勝となった。
2016年11月20日に台中インターコンチネンタル野球場で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、郭泰源とのバッテリーで代打・王貞治と対戦。打者としては鹿取義隆に打ち取られ同試合最後の打者となった(11-15で巨人OB選抜の勝利)。
第24位 郭泰源
現役時代の愛称は「
郭 泰源(クォ・タイユエン、かく たいげん、1962年3月20日 – )は、台湾(中華民国)の台南市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ。現役時代の愛称は「オリエンタル・エクスプレス」、「オリエント・エクスプレス」。
投球フォームはスリークォーター。オリエンタル・エクスプレスという通称の由来となった最速158km/h(プロ入り後の最速は156km/h)の速球に加え、キレの良い高速スライダー、シュートを駆使した。
ロサンゼルスオリンピックで郭と対戦した広澤克実は「(郭の)当時の速球は、(セーブ数の日本タイ記録を残した)2007年頃の藤川球児にも劣らない」と評している。また、制球力は西武黄金期の投手陣の中でも1・2を争うほどの良さと言われた。落合博満は「郭泰源の投球は野茂英雄よりもすごいと思った」と語っている。
第23位 ビル・ガリクソン
糖尿病と闘う メジャーのエース
1988年、1989年の2年間、巨人に在籍。1型糖尿病を患いながらも2年間で21勝(14敗)を挙げる。糖尿病は激しい運動は無理であるというイメージを持つ人々にとって、インスリンを打っての登板は衝撃的であった。
巨人在籍時代、ガリクソンは桑田真澄投手と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名づけている(桑田の選手生活晩年にメジャー挑戦を決意させたのも、この頃ガリクソンが桑田にメジャーについて語ったことが大きく影響している)。また、長嶋茂雄の息子、長嶋一茂がプロ入り初本塁打を打った相手投手はガリクソンであった。ピッチャーゴロを右手の素手でとる癖が見受けられた。
1990年よりメジャーリーグベースボールのヒューストン・アストロズに復帰、1991年にはデトロイト・タイガースで自己最高となる20勝(9敗)を挙げアメリカンリーグ最多勝利投手に輝いた。1994年にケガのため引退。
第一線の現役メジャーリーガーの日本球団入団も比較的異例だが、日本で実績を残し、さらに帰国後数年に渡って再びMLBでも活躍した稀有な選手の一人である。
引退後の1998年、社会的貢献をした小児糖尿病患者を表彰するため、日本糖尿病協会が彼の名前を冠した「ガリクソン賞」を制定した。
第22位 ジョン・シピン
長髪ひげモジャから紳士になったライオン丸
1972年に大洋に入団。近藤昭仁に代わる二塁手として、常に3割を狙える安定した打撃を売りにクリーンナップの一角として活躍。守備にも定評があり1972年・1973年にダイヤモンドグラブ賞(二塁手)を受賞、1970年代のプロ野球を代表する二塁手となった。
1975年には自己最多の34本塁打を記録。その長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」の愛称で親しまれ、球団が川崎を去る1977年まで在籍。
1978年に金銭トレードで巨人に移籍。移籍の際にトレードマークとなっていた長髪と髭をばっさり、切った。入団1年目は二塁手に土井正三がいたため、右翼手との掛け持ちだった。巨人の第42代4番打者にもなっている。1979年も中心打者として活躍したが、1980年には篠塚利夫が台頭し定位置を奪取。同年の最終戦に二塁手として先発した後、1000万円の功労金を受け取り退団した。契約は1981年まで残っていたが、腰痛(これが原因で守備力が落ち、大洋からの放出につながった)に加えて若手育成のチーム方針もあり、引退につながった。
引退後は10年ほど悠々自適の暮らしを送っていたが、不動産業のライセンスを取得し高級別荘地のセールスマンとなる。現在は自宅のあるカリフォルニア州サンタクララで、バッティングセンターを経営する。
第21位 ジーン・バッキー
王・長嶋に立ちはだかった阪神伝説のエース
ジーン・マーティン・バッキー(Gene Martin Bacque, 1937年8月12日 – )は、海外出身選手として初めて沢村栄治賞を受賞した。
1962年8月に入団テストを受けて合格し入団した。入団テストを受けた時のバッキーは球速はあってもコントロールがむちゃくちゃであったが、「磨けば光るかもしれない」という藤本監督の意向で入団が決まった。背番号は4であった。
阪神入団当初はコントロールが悪かったが、1964年に投手コーチの杉下茂による猛烈なトレーニングで下半身を鍛えられ、さらに小山正明のスライダーを研究することで制球力をつけた。上手、横手からの変幻自在な投法と得意のナックルボールを決め球として先発投手の仲間入りをし、小山がトレードで抜けた後村山実とともに二枚看板のエースとして活躍した。
1965年6月28日には読売ジャイアンツ相手にノーヒットノーランを記録した。1968年まで5年連続で2桁勝利を続けていたが、同年9月18日の対巨人戦で、自身が投球した王貞治への危険球を巡って発生した騒動において、巨人の荒川博コーチと乱闘した際に、荒川を強く殴った衝撃で右手の親指を骨折。
このケガからの復活を目指し、翌1969年に近鉄に移籍したが、球威は戻らず0勝7敗の勝ち星なしに終わり、スタンカと並んでいた外国人投手の通算勝利記録を更新できずに、同年現役を引退した。引退の引き金は親指の骨折が原因と言われることが多いが、実際は打球処理の際に腰を傷めたことだった。
引退後は高校あ、中学校の教師を27年間つとめ、のち「阪神タイガースのオカネ」を元手にして牧場経営に携わった。
第20位 ジェフ・ウィリアムス
恐怖の魔球をあやつるイケメン投手
ジェフリー・フランシス・ウィリアムス(1972年6月6日 – )は、オーストラリアキャンベラ出身の元プロ野球選手(投手)。
2002年オフに阪神タイガースに入団。入団当初はセットアッパーとして起用されていたが、開幕当初にクローザーに起用されていたルー・ポートの不調から、急遽クローザーを務めることとなった。
日本シリーズでは、福岡ダイエーホークス監督の王貞治をして「あのピッチャーが出てくるのは嫌だ」と言わしめたほどの大活躍を見せる。
2006年の春季キャンプ中には再び左膝に痛みを訴え、同年3月に2度目の内視鏡による左膝半月板の修復手術を受ける。シーズン開幕には間に合わなかったものの、5月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で復帰すると、前年同様安定した成績でチームを支えた。同年オフ、メジャーリーグ球団からの入団オファーがあったものの藤川・矢野燿大・金本知憲らチームメイトの引き留めとチームへの愛情から残留を決断した。
阪神での7年の在籍期間はジーン・バッキーと並び、ランディ・メッセンジャーに次いで阪神の外国人投手として2番目に長い契約期間である。
2011年3月、阪神の駐米スカウトに就任。
第19位 チャーリー・マニエル
アメフト風の珍ヘルメットでホームラン王に
第18位 ボブ・ホーナー
デビュー2試合で4ホームラン
第17位 郭源治
とにかく吠えまくる!踊る守護神
第16位 ブーマー
第15位 ロバート・ローズ
第14位 トーマス・オマリー
第13位 デニス・サファテ
第12位 マット・マートン
第11位 ラルフ・ブライアント
第10位 マイルズ・マイコラス
第9位 ランディ・メッセンジャー
第8位 オレステス・デストラーデ
第7位 アレックス・カブレラ
第6位 タフィ・ローズ
第5位 ロベルト・ペタジーニ
第4位 ウラディミール・バレンティン
第3位 アレックス・ラミレス
第2位 ウォーレン・クロマティ
第1位 ランディ・バース
ランディ・ウイリアム・バス(1954年3月13日 – )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン生まれの元プロ野球選手(内野手)、政治家。
1983年から1988年までNPBの阪神タイガースでプレー。6シーズンに渡る在籍は、ウィリー・カークランド、マット・マートンと並び球団の歴代外国人野手としての史上最長記録である。
現役引退後、2004年からオクラホマ州議会の上院議員(民主党)を務めている(現職)。
NPBにおけるシーズン打率の日本記録保持者(.389)であり、外国人選手ではNPB史上最多となる2度の三冠王に輝いている。
球界のレジェンドが本気で選ぶベスト3
掛布雅之が選ぶ歴代助っ人外国人ベスト3
1位 マイク・ラインバック
2位 ハル・ブリーデン
3位 ランディ・バース
掛布雅之(かけふ まさゆき)
・出身地 千葉県千葉市中央区
(新潟県三条市生まれ)
・生年月日 1955年5月9日(63歳)
・身長 175 cm
・体重 77 kg
・投球・打席 右投左打
・ポジション 三塁手
・プロ入り 1973年 ドラフト6位
・選手歴
習志野市立習志野高等学校
阪神タイガース (1974 – 1988)
・監督歴
阪神タイガース (2016 – 2017)
桑田真澄が選ぶ歴代助っ人外国人ベスト3
1位 W・クロマティ
2位 B・ガリクソン
3位 O・デストラーデ
桑田真澄(くわたますみ)
・出身地 大阪府八尾市
・生年月日 1968年4月1日(50歳)
・身長 174 cm
・体重 80 kg
・投球・打席 右投右打
・ポジション 投手
・プロ入り 1985年 ドラフト1位
・選手歴
PL学園高等学校
読売ジャイアンツ (1986 – 2006)
ピッツバーグ・パイレーツ (2007)
まとめ
番組収録後、中居さんは「なかなか出来そうで出来なかった企画なので楽しかった」。野球好きだけあって「普段、お酒飲みながら話しているようなことを番組でやったような感じ」と充実した時間を過ごしたようで、「こういう企画だったら何時間でも話していられる!」と、楽しそうに振り返っていたそうです。
ホントに中居正広さんって野球好きですよね~。
最後までお読みいただきありがとうございました。