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【渡瀬恒彦さん死去】お別れの会はいつ?錦織圭が親戚?早稲田除籍の原因とは

俳優の渡瀬恒彦(わたせつねひこ)さんが3月14日、都内の病院で死去されました。72歳でした。

渡瀬恒彦さんの死因や病名、家族や代表作、お別れ会の日取りなどについて調べました。


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渡瀬恒彦さんの死因や病名は?

渡瀬恒彦さんの死因は胆嚢ガン(たんのうがん)だったそうです。

渡瀬さんは15年夏ごろに体調不良を訴え、検査の結果、胆のうに悪性腫瘍が見つかって都内の大学病院に入院。
5カ月間、仕事を入れず、抗がん剤の投与と放射線治療を受けた。効果が出て、少しずつ仕事復帰を果たしたが、完治せず、入退院を繰り返していた。

病名の胆嚢ガン(たんのうがん)とは?

胆嚢(たんのう)はどんな臓器?

胆のうは肝臓の下にあり、肝臓でつくられた胆汁という消化液をいったんためておく袋のような臓器です。食事をすると、胆のうはその情報を受けて、ためておいた胆汁を排出します。胆汁は胆のう管から胆管を通って十二指腸に流れ込み、消化を助けます。

胆嚢ガン(たんのうがん)の症状とは?

胆のうや胆のう管にできた悪性腫瘍を胆のうがんといいます。また胆のうがん、胆管がん、乳頭部がんを合わせて胆道がんと呼びます。

胆のうがんは初期の段階では無症状です。進行するにつれて、腹痛や悪心嘔吐(おうと)、体重減少、黄疸(おうだん)が出るそうです。

胆のうがんは自覚症状がないため早期発見が難しく、検診の超音波検査で偶然見つかるケースがほとんど。
すぐに手術で摘出するのが一般的だが、発見時にはすでに他の部位に転移していて、手術ができない場合も多いそうです。

手術が困難な場合、1年生存率は20%ほど。3年生存率にいたっては3%程度といわれているそうです。

渡瀬恒彦さんの入院先の病院は?

東京都内の病院だったようです。
詳細がわかりましたら追記いたします。

放射線治療は、樹木希林さん、九重親方も通われた「UMSオンコロジークリニック」で治療を受けていたそうです。

鹿児島県鹿児島市照国町13−37

渡瀬恒彦さんの葬儀や喪主について

葬儀は近親者のみで行われるそうです。
喪主は妻のい保(いほ)さんだそうです。

渡瀬恒彦さんのお別れの会について

詳細が分かり次第、更新いたします。

渡瀬恒彦さんのプロフィール

本名 渡瀬 恒彦(わたせつねひこ)
生年月日 1944年7月28日
没年月日 2017年3月14日(満72歳没)
出生地 日本の旗 日本 島根県能義郡安来町(現・安来市)
身長 174cm
血液型 AB型
学歴 早稲田大学法学部(除籍)
職業 俳優・歌手
活動期間 1969年-2017年
活動内容 1969年:デビュー
1976年: 『狂った野獣』
1978年:『皇帝のいない八月』
1980年: 『震える舌』
1983年: 『南極物語』
1984年: 『天城越え』
1985年: 『真田太平記』
1992年: 『十津川警部シリーズ』
2002年: 『おみやさん』
2006年: 『警視庁捜査一課9係』
配偶者 大原麗子 (1973年 – 1978年)
一般人女性 (1979年 – )
著名な家族 渡哲也(兄)
事務所 東映マネージメント

早大法学部を除籍になった後、電通PRセンターに入社。
兄の渡は既に日活の青春スターとしてスターの階段を駆け上がっていたが、渡瀬さんは芸能界に全く興味がなかった。そこを口説いたのが東映の岡田茂社長(当時)で、69年に同社と契約を結んだ。

渡瀬恒彦さんが早稲田大学法学部を除籍になった理由は?

渡瀬恒彦さんのプロフィールに早稲田大学除籍とありました。

除籍の理由、気になりますよね・・なにかヤンチャなことをしでかしたのでしょうか?調べてみました。

渡瀬恒彦さんは(昭和)44年卒業見込みで広告会社に就職されます。

しかし、就職したせいで、ドイツ語文法の単位が取れなかったそうです。

4年で社会人になり、社会人になってからも7年間は、大学の月謝を払っていたそうです。

しかし、8年目に月謝を滞納したことから、除籍になってしまったそうです。

勿体無い話ですが、ヤンチャしていたわけではなくてよかったです。

渡瀬恒彦さんの代表作は?

70年に石井輝男監督「殺し屋人別帳」でデビュー。「仁義なき戦い」シリーズなど数多くのやくざ映画やアクション作品で実力を養い、78年に出演した深作欣二監督の「赤穂城断絶」と野村芳太郎監督の「事件」の演技でブルーリボン賞助演男優賞などを受賞した。

その後も「震える舌」「南極物語」などの話題作で存在感を見せる一方、映画界の斜陽化に伴ってテレビでの活躍も目立つようになった。

「十津川警部」(TBS)「おみやさん」などは息の長いシリーズとなった。

渡瀬恒彦さんの受賞歴

  • 1978年:キネマ旬報賞 助演男優賞 『赤穂城断絶』、『事件』
  • 1978年:第3回 報知映画賞 助演男優賞 『事件』、『皇帝のいない八月』、『赤穂城断絶』
  • 1979年:第21回 ブルーリボン賞 助演男優賞 『赤穂城断絶』、『事件』
  • 1979年:第2回 日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞 『事件』
  • 1981年:第54回 キネマ旬報賞 主演男優賞 『神様がくれた赤ん坊』、『震える舌』

渡瀬恒彦さんの家族について、元妻は故・大原麗子さん

1973年(昭和48年)9月に女優・大原麗子と結婚していたが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚した。

大原麗子さんとの離婚の原因は?

渡瀬家の家風に馴染めなかったことが離婚の原因だと言われています。女性は家庭に入って夫を支え、子供を育てる。それが渡瀬家の考え方ようです。

しかし結婚後、大原麗子の人気はますます上昇し、次々と舞い込む仕事。いつしかすれ違いが起き、渡瀬さんご本人というより、渡瀬家の方々との溝が深まっていったそうです。

04年の「十津川警部シリーズ 東北新幹線“はやて”殺人事件」で大原さんと26年ぶりの共演を果たし話題を呼んだ。

大原さんが09年8月に62年の生涯を閉じると、同23日に営まれた「お別れの会」には渡瀬さんも参列し、別れを告げていました。


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渡瀬恒彦さんの奥様は一般女性のい保さん

1979年に新潟県出身のOL、い保さん(69)と再婚し、息子と娘に恵まれたそうです。

渡瀬恒彦さんの兄は渡哲也さん

3歳年上の渡瀬恒彦さんのお兄様は、渡哲也さんです。

渡哲也さんのデビューのきっかけは弟、恒彦のイタズラ?

大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたそうです。

在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していて、弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したそうです。

渡哲也さん本人は激怒しましたが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社したそうです。

プロテニスプレイヤーの錦織圭(にしこりけい)は親戚!?

親族にプロテニスプレイヤーの錦織圭がおり、渡・渡瀬兄弟と錦織の母が、はとこに当たるそうです。

まとめ

渡瀬恒彦さんは、周囲がいくら止めても、アクションシーンで代役のスタントマンを使うことを極端に嫌う俳優として知られていたそうです。

バスを運転して横転させたり、急発進する車のドアに引きずられたり。雪の海岸線でジープを横転させたときに下敷きになり、片足を失いかける大けがを負ったこともあったとか。

ご冥福をお祈りいたします。